令和5年度 函館聾学校沿革
函館聾学校の歴史

函館聾学校の歴史動画

令和4年度「2つの120年」

ワドマン先生と函館聾学校

107年ぶりに函館訓盲院長:聾学校2代校長の写真見つかる。

 函館聾学校の歴史は、初代C・P・ドレーパー先生が明治28年10月に開校されたことに始まりますが、明治32年にドレーパー先生が函館で亡くなられてからは、2年間は遺愛女学校のデカルソン校長先生を中心に篤志家の方々による財源で学校を継続運営していました。その後ドレーパー先生のご子息のG・F・ドレーパー宣教師さんが横浜に転任となり、後任としてJ・W・ワドマン宣教師さんが来函され、夫人であるメイム・ハントレス・ワドマン夫人が明治34年に院長として就任(当時38歳)し、校名も函館訓盲会から函館訓盲院に変更し、明治36年まで勤められました。
  明治5年の学制の発布から30年近く経緯しても、明治34年当時の函館の小学校の就学率は81.9%であり、障がい児教育に至っては皆無に等しく、明治11年の「京都盲唖院」の創設が教育史上初めてと言われています。法律上も明治23年「小学校令」の40条「盲唖学校其他小学校ニ類スル・・」にやっとその文言が見いだされ、公的な支援が無かった時代だけに、想像を絶する困難があったことは間違いありません。
  当時は、視覚障がいの児童生徒と同じ校舎で教育をしている時代で、大正12年「盲学校及聾唖学校令」が発布されるまでの、分離した教育が行なわれる前のことです。当時の校舎は、青柳町にあり、歳費の450円(現在の約220万円相当)を寄付に頼らざるをえず、当時約8万の人口の函館では財源確保も厳しく、多くの支援者の方々と苦労したことが偲ばれます。
 さらに日本は、日露戦争(明治37年~38年)の前の富国強兵の時代でした。明治35年1月の青森県八甲田山に於ける弘前歩兵第5連隊の雪中耐寒行軍の遭難もロシアとの対戦を想定しての軍事訓練中のもので、津軽海峡防備のための函館山要塞(明治34年10月完成)の築かれた時代と重なり、多大な軍事費を要した時代です。また、当時の函館は幾多の大火(明治28,29,32,33,35年)に見舞われた街で、さらに伝染病のコレラ、腸チフス、赤痢などの発生も多く、財源確保だけでなく健康・安全に関する学校経営の苦労が推測されます。
  困難な時代の先頭に立っていたワドマン先生の写真がなく、手を尽くし探した結果、青山学院大学資料センター(東京)にあることが分かり、ご厚意で写真のコピーを寄贈していただき、107年ぶりに聾学校の歴史の1ページを埋めることができました。大恩人ですので、苦労を忘れることないようにしたいものです。

  

  ※写真等の資料は校長室廊下の歴史コーナーに展示していますので、

   来校の際にはぜひ、ご覧ください。